源義仲


六渡寺 日枝神社



 近江国・坂本の日吉大社から分霊を勧請した。養老年間、僧行基が仏像を3体を奉納し、現在も社宝として現存し、新湊市の文化財として指定されている。六渡寺の地は木曽義仲が5万の兵を休めたと伝えられている程繁栄していた。社殿は天文年間に上杉氏の兵火を被り、壮大な旧観を失ったと伝えられている。明治時代に入り、北海道との航路が開かれると、北前船の往復が盛んとなり、船員の信仰が厚く、玉垣など全国の船関係者からの奉納品が多く残っている。

源平合戦由来の弓の清水

 この地は1183年、木曽義仲が平家一族と白兵戦を繰り広げた古戦場としても知られ、喉の渇きを潤すために家臣のすすめで、弓でがけ下に矢を射ったところ、そこから清水が湧き出たと伝えられています。これが弓の清水という名前の由来にもなっています。この清水はどんな日照りの時も枯れたことがなく、また、病気の人も この水を飲むと治ると言い伝えられています。こんこんと湧き出る水は、源平の歴史を今も思い起こさせてくれます。

 『源平盛衰記(げんぺいせいすいき)』に記された木曽義仲(きそ・よしなか)による「火牛の計(かぎゅうのけい)」はあまりにも有名です。
 夜が更けるのを待って、夜半に北側の黒谷の方角から、400から500頭もの牛の角に松明(たいまつ)を付け、4万余騎の軍勢とともに平家の陣に突入しました。昼間の進軍で疲れ切っていた平家軍1万8千余騎は、源氏軍の奇襲に混乱し、何もできずに追い詰められ、人馬もろとも地獄谷に突き落とされました。

火牛