江戸時代(1)
伏木の村のできごごと
*1石を1反の面積として、1000㎡、一辺約30mを基準として、そのイメージを田んぼで表現している。
高岡開町当初(1609)の戸数と人口は、武家・町人合わせて1,200戸5,000人前後と考えられている。
元禄12年(1699)には2,628戸13,085人、文久3年(1863)は4,698戸20,000人以上であったと考えられている。(『高岡市史』中巻による)。
<参考:江戸時代の土地と人口>
江戸時代は封建制の時代であった。政治・社会経済の基礎は土地と農業にあった。その土地は石高制(こくだかせい)に基づいて所有関係が定められていた。公式には耕地や屋敷地などもすべて米の生産力に換算されて、石高によって表現されていた。公式に把握されている。
公式には、17世紀、とくにその前半は石高の増大が著しかったことが示されている。これらの石高は村ごとに分けられていた。村(明治以降の大字(おおあざ)にあたる)はその地域内の石高を村高(むらだか)と称していたが、その村の数も公式には、表1に示されるように、5万~6万もの村に及んでいた。村高平均は17世紀なかばで420石であった。
石高制のもとでは、耕地面積についての統計は例外的にしかつくられていない。1716~1747年(享保1~延享4)の記録によると、わが国の全耕地(田、畑、屋敷など)は297万0780町歩であり、そのうち田の比率は55.6%であったとされている。この総耕地地積は、明治初年の地租改正直前の耕地地積301万9741町歩とほとんど変わらない。こうして、18世紀前半での土地状況の大略は、反当り石高9斗余、1村当り平均地積47.3町歩前後であるといってよい。(1町歩は約10,000㎡)
17世紀の人口はわからないが、16世紀末にはおそらく1800万人ぐらいと推定されており、17世紀を通じて人口もまた著しく増大したことが明らかである。
1872年(明治5)の総人口は3311万0825人であった。これらの人々は、それぞれの身分に区別され編成されていた。その身分別人口区分は、おおよそ、士が5~6%、農が80~85%、工が3%前後、商が6%前後、賤民(せんみん)が1.7%前後であり、ほかに神官僧尼が1%前後を占めていた。18世紀前半の1村平均の人口は約400人であったとみてよい。
<日本の総石高・村数>
総石高 村数
1598年 18,509,043石
1645年 23,292,668石 55,459村
1697年 27,095,466石 62,791村
1829年 30,553,440石 63,472村
1873年 32,555,897石 69,736村
【歴史考察】
<室町時代>
足利氏による武家政権の時代をさし、3代将軍足利義満が京都に室町殿を造営して以来,ここで幕府政治を行なったことから初代将軍足利尊氏,2代将軍足利義詮にさかのぼって足利政権の時代をさすようになりました。尊氏が延元1=建武3(1336)年光明天皇を立てて政権を握った時期から,元亀4(1573)年7月
15代将軍足利義昭が織田信長に京都から追放された時期です。
この間,初代尊氏,2代義詮の時期を含む元中9=明徳3(1392)年の南北朝合体までを南北朝時代とし,また応仁の乱以降,事実上幕府の威令の行なわれなくなった時期を戦国時代と細分することもあります。室町幕府の全盛期は南北朝合一により武家政権と貴族政権の間の抗争が終わった足利義満の時代で,鹿苑寺金閣に代表される北山文化の隆盛をみるが,守護大名の領国の強化,応仁の乱を契機とする戦国大名の領国の展開とともに,幕府の権威は衰退します。
8代将軍足利義政は慈照寺銀閣に代表される東山文化の推進者となりました。この時代の文化は,公家文化を基調とした武家文化の展開,日明交渉を基礎とする大陸文化の影響,文化の地方浸透と庶民化の傾向を示しました。
<安土桃山時代>
織田信長が将軍足利義昭を奉じて入京した永禄 11 (1568) 年9月 26日から,または義昭が信長に追われ室町幕府が滅びた元亀4 (1573)
年7月 18日から,豊臣秀吉政権の終わった慶長3 (1598) 年8月 18日,徳川家康が実権を握る関ヶ原の戦いの慶長5 (1600) 年9月
15日,または徳川家康が江戸幕府を開いた慶長8 (1603) 年までの約 30年間の時代をさします。信長の居城は安土城であり,秀吉の居城である伏見城がのちに桃山と称したところから,織田信長,豊臣秀吉の覇権
(この政権を織豊政権という) の時代をいいます。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典