一向一揆関関連事項
1390(明徳1)本願寺第五代綽如(しゃくにょ)により北陸の拠点として瑞泉寺が建立される
1467(応仁1)応仁の乱(~1477)
こののち、戦国時代がはじまるとともに、土一揆、国一揆、一向一揆が頻繁に起きる。
1471(文明3)蓮如が越中砺波郡蟹谷庄土山(南砺市土山)に土山御坊を創建した(勝興寺)
1474(文明6)加賀一揆(文明一揆)、加賀守護富樫家の家督争いに介入。政親を支援する(~1480)
1481(文明13)越中一揆、国人領主石黒氏を倒す
1488(長享2)加賀一揆(長享一揆)、富樫政親を高尾城に滅ぼす
1493(明応2)細川政元、将軍義稙を追放、義澄を擁し自ら管領となる
1506(永正3)越中一揆、越後守護代長尾能景を敗死させる(永正一揆)
1531(享禄4)大小一揆(享禄錯乱)、加賀三箇寺(松岡寺・本泉寺・光教寺)敗北 大一揆勝利する。
北陸において、勝興寺、瑞泉寺が中心となる
1570(元亀1)石山戦争開始。伊勢長島一揆(~1574)
1572(元亀3)越中国尻垂坂(しりたれざか 現 富山県富山市西新庄)において、上杉謙信軍が
加賀一向一揆・越中一向一揆連合を破った戦い。富山城の戦いと言われる。
1580(天正8)顕如、信長と和議し、石山戦争終結。加賀一揆、柴田勝家に平定される
【参考】
●土一揆
室町中期、畿内を中心に頻発した農民・地侍の武装蜂起。年貢の減免や徳政を要求して、荘園領主・守護大名、また酒屋・土倉(どそう)などの高利貸とも武力で争った。
●国一揆
室町時代、国衆(くにしゅう)・国人(こくじん)とよばれていた小領主や農民が、荘園領主や守護に抵抗して一郡ないし数郡の規模で起こした一揆。
●一向一揆
宗教団体の信者のおこした一揆で、法華一揆は、法華宗の信者がおこした一揆、この内、最も激しかったのは、一向一揆であった。
一向宗の寺は、大谷本願寺といって、都の大谷にあり、応仁の乱で焼けたため、越前(福井県)の吉崎、続いて京都の山科に移った。
この頃、8代宗主蓮如が一向宗を広めた。
結果、越前国(福井県の一部)加賀国(石川県の一部)など北陸地方にたくさんの信者ができた。
その後に、山科の本願寺も焼かれ、摂津の石山(大阪市)に本願寺を築いた。
一向宗は、南無阿弥陀仏と唱えれば極楽へ行けるという教え、一般の人々にも広く信じられた。
また、信者(門徒)の間の結びつきは、信仰を中心にして繋がっているだけに普通の人々の結びつきとは比較にならないほど強いものであった。
1488年(長享二年)、応仁の乱の後で加賀(石川県の一部)におこった一向一揆は能登(石川県の一部)、越中(富山県の一部)にまで広がった。一揆の人数は20万に達したと言われ、ついに、加賀国の守護の富樫政親の軍勢を破った。
それから、100年近く、越中・加賀では本願寺門徒が権力を握り僧と土地の豪族と農民の代表者による政治が行われた。そのため越中・加賀は、本願寺の領国と言えるほどであった。一向一揆は、土一揆が沈められてからも、なお強い力をもっていたが、やがて織田信長や豊臣秀吉に征伐された。