能登巡行

 万葉集巻十七の巻末近く、越中国守家持が「春の出挙(すいこ)に依りて諸郡を巡行するに、当時当所にして属目して作ったという9首が収められています。国府のある射水郡伏木から礪波(となみ)郡―婦負(ねい)郡―新川郡と東行し、再び射水郡に戻って半島の付け根を横断、羽咋(はくい)郡―能登郡―鳳至(ふげし)郡―珠洲(すす)郡と能登を北上したのち、船で射水郡へ戻るという行程になっています。          
 家持はこの9首に、当時越中国に属した8郡すべてを詠み込みました。このうち後半の5首が旧能登国4郡を詠んだ歌になっています。

          能登巡行

【能登5首】

1.気多(けた)神宮に赴き参り、海辺を行きし時作る歌一首
  「志雄路(しをぢ)から ただ越え来れば 羽咋(はくひ)の 海朝凪したり 船梶もがも」
   (巻十七 4025)

   (訳)志雄路を通って山を真っ直ぐに越えて来ると、羽咋の海は朝凪している。船と楫が欲しいものだ 
    題詞の「気多神宮」能登一の宮、「志雄路」は富山県氷見市から石川県羽咋郡志雄町へ出る山道で
    「羽咋の海」は邑知潟(おうちがた)とも羽咋市沖の海とも言われています。

2.能登郡にして、香嶋津より船を発して熊来村を射して往く時に作る歌二首
  「鳥総(とぶさ)たて 船木きるといふ 能登の嶋 山今日見れば 木立繁しも幾代神(かむ)びぞ」
   (巻十七 4026)                                      
   (訳)鳥総を立てて船材を伐り出すという能登の島山よ。今日来て見れば、木立がぎっしりと繁って
     いる。幾代を経てかくも神々しくなったことか。

    題詞の「香嶋津」は詳細不明ですが、七尾湾沿岸の港であることは確かです。「鳥総(とぶさ)」は
    梢の枝葉の繁った部分を指し、大木を伐った後、切り株の上に山の神を祭るためこれを立てる
    慣習があったと言います。家持は能登島を眺めつつ、七尾湾を航行しました。たゆたう浪の上で
    、遠い都への慕情を募らせたのでしょう。

3.続けて次のような歌を詠みました。
  「香嶋より 熊来をさして 漕ぐ船の 楫とる間なく 京師(みやこ)しおもほゆ」
    (巻十七 4027)                                     
    (訳)いま香嶋から熊来を目指して船を漕ぐ船頭が、休む間もなく楫を繰るように、絶え間なく都
      が思われることだ。


    「楫」は今言う舵でなく、櫂や櫓の総称をこう言いました。「楫とる間」とは、櫂を引いてから
     次の動作へ移るまでの一瞬の「ため」を言い、極めて短い間の休止を比喩します。
     都への恋情が、そこに残してきた妻への恋しさを含んでいることは言うまでもありません。

4.鳳至(ふげし)郡にして、饒石川(にぎしがは)を渡る時に作る歌一首
  「妹に逢はず 久しくなりぬ 饒石川 きよき瀬ごとに 水占(みなうら)はへてな」
   (巻十七 4028)                                      
   (訳)妻に逢わず久しく時が経った。饒石川の清らかな瀬ごとに水占をしよう。


   「水占」は占いの一種ですが、具体的にどのような方法をとったのか定かでありません。
    何を占ったのかも良く判りませんが、妻の安否か、または妻にいつ逢えるかを知ろうとした
    ものと思われます

5.珠洲(すす)郡より船を発して治郡に還りし時に、長浜の湾に泊てて、月光を仰ぎ見て作る歌一首
  「珠洲の海に 朝びらきして 漕ぎ来れば 長浜の浦に 月照りにけり」
   (巻十七 4029)                                        
   (訳)珠洲の海に朝船出をして漕いで来ると、長浜の浦に着いた時には月が照っているのであった。

   題詞の「治郡」(類聚古集による)は、おそらく治府(国府)の所在する郡のことで、射水郡を指す
   のでしょう。能登半島の北端にあたる珠洲郡から船に乗り国府へ還る途中、「長浜の浦」(和名抄
   には、能登郡長浜の地名が載っています。七尾湾内の入江でしょうか。但し松田江の長浜と同一と
   する説もあります)に停泊した時の作です。能登半島の東海岸沿いは波穏やかな航路ですが、
   一日がかりの船旅は決して楽なものではなかったでしょう。船を迎える月の光に、家持たちは長旅
   の疲れをひととき癒されたに違いありません