年 |
で き ご と |
備 考 |
1615年 |
加賀藩は伏木村与右衛門船など13隻に佐渡との通航を許可した |
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1617年 |
伏木湊にくる他国船から入港手数料をとることとなった |
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1639年 |
日本は鎖国することとなった このころ伏木湊には200石積船30隻から400、500石積船が約200隻入港でき、9月から3月までは、通船がなかった |
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1654年 |
伏木浦の漁場で争いがあった |
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1666年 |
幕府が全国に13の重要な港を定め、その1つに伏木を選び高札を立てさせた
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1693年 |
伏木古国府の長船に積み込む荷物の割合が伏木3/4、古国府1/4と決められた |
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1723年 |
加賀藩の伏木御蔵に米1620石あまりあった |
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1724年 |
伏木湊で入港手数料をとることになった |
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1733年 |
伏木湊のとりしまりがきびしくなった |
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1736年 |
伏木浦に津波が押し寄せ人家50戸が流され行方不明が7人でた |
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1741年 |
塩船の取り締まりがきびしくなった |
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1744年 |
伏木村と高岡木町の船方が船積荷かえのことで争った |
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1767年 |
伏木湊の廻船出入や米の積み替えのとりしまりがきびしくなった |
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1784年 |
肥料となる干しイワシが入ることになった |
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1793年 |
伏木湊の出船、やとい船の運賃が決まった |
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1797年 |
古国府の船でこの年塩を運んだものは13隻で、運んだ量は5160俵だった |
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1806年 |
伏木湊と小矢部川の漁業について租税が多くなった |
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1808年 |
伏木村・六渡寺村の船方が争った |
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1810年 |
大阪へ米400石を積み出すこととなった |
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1813年 |
伏木と古国府の船方が争った |
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1817年 |
伏木村と古国府の船方が吉久御蔵の米の積み出しのことで争った |
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1818年 |
伏木湊に出入りする荷物の手数料がかわった |
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1838年 |
このころ200石積以上の廻船が伏木に10隻、古国府に8隻あった |
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1841年 |
越後の船が伏木で酒を密売した |
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1842年 |
能登屋三右衛門(藤井能三の父)が伏木海岸に防波堤を作り始めた |
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1846年 |
高波で家が90戸こわれた |
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1849年 |
高波が押し寄せた |
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1850年 |
加賀藩主が海岸を見回った |
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1850年 |
伏木海岸に砲台がつくられた |
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1858年 |
幕府の外国奉行が海岸を見回った |
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1858年 |
伏木湊では入船2003隻、出船1987隻、持ち船39隻であった |
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1859年 |
ロシアの軍艦がきて港の深さを測っていった |
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1859年 |
日本は開国し、5か国と条約を結んだ |
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1862年 |
兵士がきて伏木海岸を守ることとなった |
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1868年 |
幕府と朝廷方との戦いが起こり、その積荷や負傷兵のひきあげで伏木湊は忙しかった |
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北前船とは何か
北前船は日本海を航行し、様々な物資を各地へ運搬した。北前船とは大坂や神戸、瀬戸内沿岸で用いられた用語で、宝暦十一年(1761年)刊行の『和漢船用集』が初見である。北方の海から来る船、北の海へ往来する船、といった意味で、特定の船型を表すものではない。
船型には主に三種あり、ハガセ船、北国船、弁才船(べざいせん)である。
ハガセ船を改良した北国船はドングリ船とも呼称され、千石規模の大船である。加賀・能登・越後・津軽・南部等で用いられ、船底はヲモキ造で、その上に厚い外板をはぎ合わせる。丸く高い幅広の船首を持ち、鋭い日本海の波に突っ込まないよう浮力を持たせ、波の抵抗を小さくして推進力を向上させるとともに、海岸の岩礁にも耐える堅牢な船底を有した。櫓と帆を併用し、五百石積では十一~十三人、千石積では十二~二十二人、千五百石積では二十七・八人の水主が必要であった。
船宿や船問屋には得意先の船が入港するのを確かめる望楼があり、二階には障子・襖を取り払うと二百畳にはなる部屋を確保している。ここに宿泊も出来、更には倉庫に置けない秘密の荷物も置いた。また庭の片
隅に茶室と賓客用の離れが二棟備え、藩末に伏木の能登屋で長滞在し藤井能三を感化した水戸の青山勇など、重要な人物が逗留したと思われる。
船宿と船問屋の違いであるが、一応前者は廻船等を主体に扱い、後者は商取引を主体とする事になっているが、区別をする実質的な意味は少ない。例えば伏木
湊では船宿と船問屋は同じである。水主達は小宿で宿泊した。船宿は船が出たり着いたりした際に手続きし、寄航中の船へ物資を補給し、水主を世話して宿泊さ
せ、寄港先との連絡や積荷売捌きを斡旋し、海難時の法的手続きと濡米の保管・処分の手続きを代行した。
伏木湊を例にあげると、寛延二年(1749年)に八軒問屋が成立し、文化五年(1808年)鈴木屋が廃業したため七軒になったが佐ヶ野屋の廃業と能登屋の加入があり、渋屋と氷見屋が廃業するが、西海屋・網屋・太田屋と鶴屋・能登屋で各二株ずつ保有し七軒問屋と称した。
一方小宿は水主の休憩所が拡大したもので九軒あり、問屋同様に荷物を 売捌きたい願い出て両者は対立していた。