伏木神社

 伏木神社の御鎮座は社伝によれば、奈良時代・聖武天皇の御代、天平4年(732年)9月に海岸に奇端があったので、神明宮として伊勢神宮から布師浦(ふしうら)の蔵ヶ浜(ぞうがはま)(今の石油基地の沖合い辺り)に勧請され、海岸鎮護・住民の守護神として創祀されました。
 万葉の歌人・越中国守大伴家持卿が在任した天平の頃、当社を崇敬したと伝えられています。
 その後、社地は波浪の侵食を受けて幾度か遷り、江戸時代の末期、文化10年(1813年)9月24日、現在の地(八幡社に合祀、国府別館の跡地、字大館、館ヶ丘)に遷座しました。この時、神幸供奉として伏木曳山が造られ、勇ましい曳山行事となって現在に至り、ますます神賑わいを極めています。
近郷11ヶ村の総社として崇敬され、氏子の繁栄につれて御神輿の渡御が行われ、そのお供として母衣(ほろ)(武者行列)、花傘、行燈などが作られて賑わいました。
 明治16年8月 伏木神社と改称されました。


伏木神社ホームページ
http://www.fushikijinjya.or.jp/


<伏木けんか山祭りの歴史>

曳山の創設は、文政3年(1820年)に始まると思われます。
建造に着手した直接の動機は、鎮守の神明宮(現在の伏木神社)が波崩れの災いに遭って、文化10年(1813年)に現在地へ遷座した機会に求められます。
しかし、山の福神に、天明元年(1781年)の銘があることや、「やま」ができる以前は、祭日に福神を船問屋の座敷に請じ祀ったという伝承が残されていることなどから、計画はもっと早く、安永の頃(1772年~80年)にまで遡ることができると思われます。
当時、伏木浦は、享保年間(1761年~35年)に完成をみた加賀藩の港湾制度を受けて、八軒問屋の成立に代表されるように、藩米の回送や北海道に至る北日本沿岸諸港との交易によって、海運・商業活動がひときわ盛んな時期を迎えていて、明和4年(1767年)には、渡海船119艘を持つまでに発展していました。
また、明和・安永の頃は、近隣の放生津や城端などの諸町で、競って曳山を新・改造する気運が盛り上がっていましたから、曳山創設の計画が動き出すのは、むしろ必然ともいうべき状況下にあったのです。さらに、文化・文政(1804年~29年)に一時期を画した芸術的な環境も、それに拍車をかけたと思われます。
伏木の曳山は、このような状況のもとで、「子孫万代」「延寿長生」「宝来招福」等をテーマに、順次完成したものです。

伏木曳山保存会発行「伏木の曳山」より