古代・大和・奈良時代

で き ご と 備 考
3~4000年前 一宮や古府の台地に人々が住み始めた  
2000年前 一宮や古府の台地に弥生式土器を使う人々が住んでいた  
400年頃 二上山のふもとから伏木にかけて、人々があつまり住むようになった  
500年頃 このころ伏木を中心に射水国という国があり、射水国造(いみずくにのみやつこ)が治めていた  
  国分山、古府の台地、城光寺上野大地、岩崎山、桜谷などに古墳がつくられた 桜谷古墳
600年頃 古府に瓦ぶきのりっぱな建物があっ 御亭角廃寺
(おちんかどはいじ)
672~692年 このころ越国が越前、越中、越後に分割される 国府
732年 田口年足( たぐちとしたり)が越中守(国司)となった  
746年 大伴家持(おおとものやかもち)が越中守(国司)となった 越中万葉
748年 大伴家持が越中国巡行を行う 能登巡行

【歴史考察】

『大和朝廷の台頭』
 三世紀の中頃まで日本には、たくさんの小さな国がありました。強い豪族たちでつくっていた大和朝廷
 により、これらの国々は四世紀の半ば頃にかけて次第に統一されました。

 朝廷はそうした国々を幾つか合わせて、一つの国をつくり、国造(くにのみやつこ)という役人にそれを
 治めさせました。また、ところによっては県(あがた)を置いて県主にそれを治めさめていました。
 朝廷は地方を直接治めるようなことはせず、今までの国の王を国造や県主にして、その地方を治めさせ貢
 物をとりました。

 国造の中には昔からその土地に勢力をはっていたものがいて、朝廷の命令に従わないことがありました。

 大和朝廷の中心となった天皇の勢いは5世紀頃になると非常に強くなりました。

 大和朝廷の時代には、天皇をはじめとする勢いのたくさんの強い豪族たちが、古墳つくりました。

 文化の中で、和歌・文字・仏教・儒教などや建築・鍛冶・織物・養蚕などが台頭してきました。

 大和朝廷は天皇を中心にして、有力な氏としては大伴氏・物部氏・蘇我氏などが集まっていました。

 5世紀の終わり頃になると、これらの氏の勢力争いが激しくなり、特に、この勢力争いの中心になった
 のが物部氏や蘇我氏です。

 天皇の勢いはこのような豪族の間の争いのために次第に衰えていきました。

『聖徳太子、中大兄皇子の役割』
 聖徳太子は摂政になってから、天皇中心の世の中を標ぼうしました。
 冠位十二階や憲法十七条を作って国の政治を整えました。

 中大兄皇子や中臣鎌足が、聖徳太子の考えを引き継ぎ、天皇中心の国の仕組みを整えようとしました。
 中大兄皇子たちは蘇我氏を滅ぼして大化の改新を行いました。

 壬申の乱の後、天皇中心の国の仕組みが確立してきました。
 仕組みは律令としてまとめられ、大宝律令による政治が行われるようになりました。

【歴史キーワード】


 『十七条憲法』
  十七条憲法は、十七条の条約などを箇条書きした文章で、聖徳太子が制定した日本初の成文法です。
  この十七条憲法は現在の憲法と違い、内容は官人の心得です。
  最初の第一条と、最期の第十七条の内容は、「和」がなによりも大事だということを重ねて注意して
  います。「争うことをせず、とことん話し合っていけば物事はうまく運ぶ」という和を尊ぶ精神が
  伺えます。

 (現代訳)
   第一条
    ・人と争わずに和を大切にしなさい
   第二条
    ・三宝を深く尊敬し、尊び、礼をつくしなさい(三宝:釈迦、その教え、僧)
   第三条
    ・天皇の命令は反発せずにかしこまって聞きなさい
   第四条
    ・役人達はつねに礼儀ただしくありなさい
   第五条
    ・道にはずれた心を捨てて、公平な態度で裁きを行いなさい
   第六条
    ・悪い事はこらしめ、良いことはどんどんしなさい
   第七条
    ・仕事はその役目に合った人にさせなさい
   第八条
    ・役人はサボることなく早朝から夜遅くまで一生懸命働きなさい
   第九条
    ・お互いを疑うことなく信じ合いなさい
   第十条
    ・他人と意見が異なっても腹を立てないようにしなさい
   第十一条
    ・優れた働きや成果、または過ちを明確にして、必ず賞罰を与えなさい
   第十二条
    ・役人は勝手に民衆から税をとってはいけない
   第十三条
    ・役人は自分だけではなく、他の役人の仕事も知っておきなさい
   第十四条
    ・役人は嫉妬の心をお互いにもってはいけない
   第十五条
    ・国のことを大事に思い、私利私欲に走ってはいけない
   第十六条
    ・民衆を使うときは、その時期を見計らって使いなさい
   第十七条
    ・大事なことは一人で決めずに、必ず皆と相談しなさい


『大化の改新』
  大化元年(645)から翌年にかけて中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)・中臣鎌足(なかとみのかまた
  り)が中心となって行いました、蘇我氏打倒に始まる一連の政治改革。唐の律令制を手本として、
  公地公民制による中央集権国家建設を目的としたもので、その後、大宝元年(701)の大宝律令の
  制定によってその政治制度は確立しました。
    ・皇族・豪族の私有地・私有民の廃止、
    ・地方行政制度の確立、
    ・班田収授の法の実施、
    ・租庸調などの統一的な税制

『大宝律令』

  701年に制定された大宝律令は、刑法といえる「律」6巻と行政法や民法といえる「令」11巻の
  全17巻から成り立っている法律です。律は唐の律令を参考にしており、令は日本の実情に合わせた
  内容になっています。
  完成したのは文武(もんむ)天皇の時代で、発端は天武(てんむ)天皇でした。681年に天武天皇が
  律令制定を命ずる詔を発令し、701年に律と令がそろって初めての国家基本法が成立しました