室町・安土桃山時代

勝興寺の砺波郡から古国府(伏木)へ移転までの変遷

で き ご と 備 考
1471年 本願寺八世蓮如上人が、越中の布教の拠点として、砺波郡蟹谷庄土山(現在の南砺市福光土山)に土山御坊を開創  
1494年 蟹谷庄高木場(南砺市高窪)へ移転  
1517年 寺号を本山に申請したところ、佐渡にあって廃絶していた順徳上皇勅願所「殊勝請願 興行寺」を再興相続して、勝興寺と称することを認められる。  
1519年 安養寺村(小矢部市末友)に移転  
1584年 佐々成政が勝興寺に還住を許し、守山城主神保氏張が射水郡
古国府の分一円を当山に寄進し、国中の諸坊主に草坊建立その他諸事につき協力を命ずる。

【歴史考察】

<室町時代>
 足利氏による武家政権の時代をさし、3代将軍足利義満が京都に室町殿を造営して以来,ここで幕府政治を行なったことから初代将軍足利尊氏,2代将軍足利義詮にさかのぼって足利政権の時代をさすようになりました。尊氏が延元1=建武3(1336)年光明天皇を立てて政権を握った時期から,元亀4(1573)年7月 15代将軍足利義昭が織田信長に京都から追放された時期です。
 この間,初代尊氏,2代義詮の時期を含む元中9=明徳3(1392)年の南北朝合体までを南北朝時代とし,また応仁の乱以降,事実上幕府の威令の行なわれなくなった時期を戦国時代と細分することもあります。室町幕府の全盛期は南北朝合一により武家政権と貴族政権の間の抗争が終わった足利義満の時代で,鹿苑寺金閣に代表される北山文化の隆盛をみるが,守護大名の領国の強化,応仁の乱を契機とする戦国大名の領国の展開とともに,幕府の権威は衰退します。
 8代将軍足利義政は慈照寺銀閣に代表される東山文化の推進者となりました。この時代の文化は,公家文化を基調とした武家文化の展開,日明交渉を基礎とする大陸文化の影響,文化の地方浸透と庶民化の傾向を示しました。

<安土桃山時代>
 織田信長が将軍足利義昭を奉じて入京した永禄 11 (1568) 年9月 26日から,または義昭が信長に追われ室町幕府が滅びた元亀4 (1573) 年7月 18日から,豊臣秀吉政権の終わった慶長3 (1598) 年8月 18日,徳川家康が実権を握る関ヶ原の戦いの慶長5 (1600) 年9月 15日,または徳川家康が江戸幕府を開いた慶長8 (1603) 年までの約 30年間の時代をさします。信長の居城は安土城であり,秀吉の居城である伏見城がのちに桃山と称したところから,織田信長,豊臣秀吉の覇権 (この政権を織豊政権という) の時代をいいます。

  出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典