永禄11年7月に信玄が勝興寺第9代住職・顕栄(1509~84)に届けた書状である。信玄の記すところによれば、これに先立って越中の情勢に変化があり、金山(かなやま)(魚津市)の椎名康胤(しいなやすたね)が反上杉の立場を明らかにして、顕如・信玄に誼を通じてきたという。これを受けて、信玄は大坂の顕如に玄東斎(げんとうさい)(日向宗立)を、金山の康胤には長延寺(ちょうえんじ)(師慶)を急派し、今後の戦略を協議せんとした。そのことを顕栄に報せて、長延寺と接触するように求めたのが、この書状である。
武田信玄書状
椎名 康胤(しいな やすたね)
室町時代から安土桃山時代にかけての武将。越中国の国人。松倉(金山)城主。
謙信は、関東出陣中の居城春日山城の留守を康胤に任せるなど康胤に信頼を寄せていた。しかし、永禄11年(1568年)7月、康胤は甲斐国の武田氏の調略に応じ、上杉氏を離反した。永禄12年8月、康胤の離反を受けて、上杉謙信は越中に出陣して松倉城を包囲したが、守りは固く、10月には包囲を解いて帰陣した。その後、三木良頼の仲介で上杉氏と和睦し、大坂本願寺へ援軍を派遣したりしたが、元亀3(1573年)年5月、武田信玄の西上作戦支援のため、加賀一向一揆が越中に侵攻したことに呼応し、再び反上杉の動きを示したため、一揆勢を撃破した上杉軍に再び居城松倉城を攻囲され、元亀4年正月、謙信の養子である長尾顕景を通じて降伏開城した。
長延寺(師慶)
「長延寺実了師慶」。彼は上杉憲政の一族で、上杉家没落後武田信玄の呼びかけにより甲斐に、長延寺を開いた。師慶は信玄の各国使者として、主に伊勢長島・大坂・一向宗・越後上杉氏へと赴いている。