1581年、当時安養寺村にあった勝興寺は、成政についた木舟城主・石黒左近将監道之に急襲され、伽藍が灰燼に帰してしまう。その後の12年(1584)、元々、親一向一揆派であった氏張による一揆衆登用の献策を受けた成政は、この書状により勝興寺の還住を許した。氏張が古国府一円を寺に寄進したことにより、勝興寺は現在の場所へ移ったのである。
佐々成政(さっさ なりまさ)
安土桃山時代の武将。尾張(おわり)の出身。織田信長に仕えて朝倉義景攻略や石山本願寺の一向一揆(いっき)攻撃を行い,越中(えっちゅう)富山を与えられた。しかし本能寺の変後は豊臣秀吉と対抗し小牧・長久手の戦で降伏。秀吉の九州征伐後,肥後(ひご)の領主となったが,秀吉に失政による肥後一揆の責任をとがめられ切腹を命じられた。
神保氏張
戦国時代の武将。神保氏は越中守護畠山家の守護代家。氏張は庶流氏純の養子で,能登守護畠山義隆の次男という。射水郡守山城(富山県高岡市)を居城とし,天正5(1577)年,上杉謙信が侵攻してくるとこれに従ったが,翌年その死去により上杉方から離れ,同9年,越中に入国した織田信長方佐々成政に属して重用された。成政は,小牧・長久手の戦の翌天正13年豊臣秀吉に下り,同15年の九州征討の際肥後に改易された。これにより氏張も肥後に移る。翌年肥後国人一揆が起こり,その責を問われて成政が刑死したのち徳川家康に召し出され,下総国香取郡の地を与えられている。子孫は旗本として続いた。